表面での選択的な結合切断によるイオン脱離を中間状態を選別して観測
概要
内殻励起を利用した選択的な結合切断は、化学反応制御の観点から注目されている。本研究では、エステル基を末端基に持つ自己組織化単分子膜について、内殻励起による結合切断により脱離してきたイオンを、電子とイオンの同時計測によって、中間状態を選別した脱離イオンを観測した。今回の成果により、脱離イオンが励起後にどのような中間状態を経て生成しているかが明らかになった。
背景
近年、軟X線領域の放射光利用技術の進展とともに、放射光を励起光源として用いた内殻励起による固体表面からのイオン脱離の研究が行われている。軟X線領域は、炭素、窒素、酸素などの軽元素の内殻電子の束縛エネルギーに対応しているが、内殻電子は、各原子に局在しており、内殻励起は非常に局所領域で起こるので、分子内の特定の領域を選択的に励起することができる。軽元素では、内殻励起後にオージェ過程が起こり、価電子が放出される。放射光は、波長可変であり偏光特性なども示すため、それらの特徴を生かして、ある結合の反結合性軌道への内殻共鳴励起を利用すると、反結合性軌道に電子が入ることによってその軌道の局在する結合力が低下するとともに、オージェ過程によって励起した原子近傍の結合性軌道の電子が取り除かれることによって、着目した位置でのイオン分裂が効率よく起こることが期待される。このような選択的励起を利用した化学結合の切断は、分子メスと呼ばれ、反応制御の観点から興味深い。
このような手法を適応する分子系として本研究では、自己組織化単分子膜を用いた。固体表面上に規則正しく配列した有機分子層を作成することは、腐食防止、潤滑や、さまざまなバイオセンサー、光センサーなど各種の機能を有する薄膜を表面上に形成する表面改質や電子デバイスやナノテクノロジーなどへの応用に非常に有用である。その中でも自己組織化単分子膜(SAM)は、固体表面上に分子が、分子間相互作用屋や表面−分子間の相互作用を通して自発的に規則正しく配列しており、さまざまな機能性官能基を表面に選択的に配列することで、表面を改質したりできる新機能材料のひとつとして注目されている物質である。SAMに対して、分子メスの手法で官能基の部位を選択的に切断することで、新たな機能を有する表面の作成が期待される、
本研究で用いたSAMは、図1左のような構造をしている。チオール基が表面原子と強く結合し、メチレン鎖の分子間相互作用によって、高い配向性を有しており、末端の官能基が最表面に並んでいる。官能基部位の選択的なイオン脱離に適した系である。最表面の官能基には、メチルエステル基を用いた。エステル基においては、これまでに側鎖にエステル基を有するPMMA((ポリメチルメタクリレート)薄膜などで、選択的な結合切断が観測されている。
このSAMで、炭素の内殻吸収端領域で測定した代表的なイオン種の脱離収量スペクトルを吸収スペクトルとともに次頁の図2に示す。初期励起状態にイオン脱離が強く依存しており、CHn+(n=1-3)イオンが縦線で示したピークで選択的に生成されている。このピークは、メチルエステル基のCH3基の炭素1s軌道から反結合性のσ*(O-CH3)軌道への共鳴励起によるもので、この共鳴励起により脱離効率が顕著に増大している。酸素の内殻吸収端領域では、末端のCH3基が結合している酸素原子の1s軌道からそれぞれσ*(O-CH3),σ*(C-OCH3)軌道への共鳴励起によって、前者の吸収でCHn+(n=1-3)が,後者でOCH+が選択的に生成する。これらの結果より、反結合性軌道に電子が入ることにより、着目した結合位置でのイオン分裂が効率よく起こると考えられる。図1の右は、それぞれ酸素原子の内殻電子をσ*(C-OCH3)軌道に励起(右上)、炭素原子の内殻電子をσ*(O-CH3) 軌道に励起(右下)することで、官能基の結合を選択的に切断することを模式的に示している。
内殻共鳴励起に伴う選択的な結合切断では、図2に示すように1種類ではなく、いくつかの脱離イオン種が観測される。それらは、先に述べたように内殻励起後のオージェ過程を経て生成している。オージェ過程後の終状態(中間状態)を選別して脱離イオンを検出すれば、各イオン種がどのような中間状態を経て脱離したかを知ることができる。本研究で行ったオージェ電子−イオン・同時計測によって、選択的な励起によって生成したさまざまな脱離種がどのような過程を経て脱離しているかが明らかにされた。
研究内容
内殻励起後に起こるオージェ過程では、価電子軌道からオージェ電子が放出される。オージェ過程に関与する価電子軌道によってオージェ電子のエネルギーが異なるため、ある特定のエネルギーのオージェ電子と脱離イオンを同時計測することにより、時間相関のあるイオンのみがピークとして観測される。
本研究では、HiSORのBL13において、図4に示す電子−イオン・同時計測装置を用いて測定を行った。図2で選択的な脱離が示されている炭素のσ*(O-CH3)軌道への共鳴励起でのオージェ電子とイオンの同時計測(AEPICO)によって得られた各脱離イオン種の収量を図3に示す。横軸は、オージェ終状態の持つエネルギーを示している。CH3+の脱離はオージェ終状態のエネルギーの低い領域で観測され、CH2+はよりオージェ終状態のエネルギーが高いところ、H+はさらにオージェ終状態のエネルギーが高いところで観測された。図中の縦線は、各イオンが共鳴励起によるO-C結合切断後、さらにC-H結合切断によって生成する場合に必要と考えられるエネルギーと、各イオンが観測されたエネルギーを相対的に比較するために示してある。
この各イオン種の振舞いは次のように考えられる。まず、反結合性軌道(σ*(O-CH3)軌道)への初期励起によりO-CH3結合切断が選択的に起こり、CH3+が生成する。生じたCH3+のうち高い内部エネルギーをもつものでは、さらにC-H結合切断が起こりCH2+などが生成する。また、同じσ*(O-CH3)軌道への共鳴励起でも、酸素の内殻励起の結果と比較することにより、励起サイトが脱離イオンに含まれない酸素内殻励起ではCH3+の断片化が抑えられ、励起原子が脱離種に含まれる励起のほうが、終状態のエネルギーが有効にイオン脱離に使われることがわかった。
本研究の意義
波長可変などの放射光の特長を生かした、内殻共鳴励起による選択的な結合切断(分子メス)の実現に向けては、その選択的励起の特性がその後の結合切断などの反応過程に、どのように反映されているかを理解することが不可欠である。本研究によって、選択的な結合切断によって生じた各イオンが、どのような中間状態を経て生成しているかが明らかになった。この結果は、励起後のエネルギー移動過程に関する重要な情報を含んでおり、本研究をさらに他の分子系などにも適用していくことにより、内殻励起による選択的な結合切断の反応機構が詳細に理解され、分子メスの実現に向けた研究がさらに進展していくことが期待される。