成果

神経ネットワークの形成に必要な「糊」タンパク質の構造の初観測
― 多発性硬化症やパーキンソン病などの研究への応用に期待―

【本研究成果のポイント】

【概要】

広島大学大学院理学研究科の熊代宗弘大学院生、同放射光科学研究センター(以下「HiSOR」という)の松尾光一准教授、泉雄大助教(現所属:量子科学技術研究開発機構)は、放射光(注1)を利用した真空紫外円二色性分光法(注2)による実験と分子動力学(以下、「MD」という)シミュレーション(注3)による理論計算を組み合わせることで、神経ネットワークの形成に寄与するミエリン塩基性タンパク質(以下、「MBP」という)の膜結合部位を同定し、その分子構造を明らかにしました。MBPは、神経ネットワークの構築に必要な生体膜の多層構造体であるミエリン鞘を安定化させる「糊」としての役割を担っており、その分子構造の解明は、ミエリン鞘の形成メカニズムの理解に寄与すると期待されます。

MBPは、神経細胞軸索を取り囲むミエリン鞘が形成される際に最も重要な役割を果たす膜結合タンパク質の一つです。これまで、様々な研究手法、条件下でMBPの膜結合構造を解明する試みが行われてきましたが、いまだにその膜結合構造や膜結合機構は明らかになっていませんでした。

本研究グループは、放射光を利用した真空紫外円二色性分光法とMD法を組み合わせた新しい計測手法により、MBPの膜結合部位とその分子構造や膜結合機構を明らかにすることに成功しました。本研究手法は、MBPのような膜結合タンパク質が関連する様々な生命現象の研究、特に多発性硬化症(注4)やパーキンソン病(注5)などの疾患の研究などに応用が可能であると期待されます。

本研究成果は、米国の科学誌「PROTEINS: Structure, Function, and Bioinfomatics」に2021年5月16日付でオンライン掲載されました。

本研究は、科学研究費助成事業(課題番号:19K06587、15K07028)による支援を受けて実施されました。また、本研究は、HiSORの共同研究委員会により採択された研究課題(課題番号:19AG027、18AG010、17AG006)として実験が行われました。

掲載雑誌:PROTEINS: Structure, Function, and Bioinfomatics
論文タイトル:”Conformation of Myelin Basic Protein Bound to Phosphatidylinositol Membrane Characterized by Vacuum-Ultraviolet Circular-Dichroism Spectroscopy and Molecular-Dynamics Simulations”
著者:Munehiro Kumashiro, Yudai Izumi, Koichi Matsuo
掲載日:2021年5月16日(オンライン公開)
DOI:10.1002/prot.26146
URL:https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/prot.26146

広島大学お知らせ
【研究成果】神経ネットワークの形成に必要な「糊」タンパク質の 構造の初観測~多発性硬化症やパーキンソン病などの研究への応用に期待~

【研究の背景】

脳が働くとき、神経細胞はインパルス(電気信号)を軸索というひも状の組織経由で伝達させます。私たち脊椎動物の神経には、このインパルスの伝播を高速化させるミエリン鞘という構造体が存在しています。ミエリン鞘は、神経細胞の軸索を取り囲むように存在し、生体膜が何層にも重なったような構造をしています(図1)。この特徴的な構造は、インパルス伝播において重要な役割を果たし、神経ネットワークの構築に寄与しています。そのため、ミエリン鞘がうまく形成されないと、インパルスの伝播が阻害されてしまい、多発性硬化症など深刻な疾病を引き起こしてしまいます。ミエリン鞘がいかにして安定に形成されるのか、そのメカニズムを解明することは、生命現象への理解を深めるだけでなく、疾病メカニズムを理解し、治療戦略を立案する上でも役立つと考えられます。

図1 神経細胞とミエリン鞘およびミエリン塩基性タンパク質(MBP)の模式図。MBPは「糊」のように生体膜同士の接着を促し、生体膜の多層構造であるミエリン鞘の形成に寄与している。2nm(ナノメートル)は2mmの100万分の1の長さ。

ミエリン塩基性タンパク質(以下、「MBP」という)は、ミエリン鞘で二番目に多く存在するタンパク質で、中枢神経系でのミエリン鞘形成において中核的な役割を担っています。そのため、ミエリン鞘の形成メカニズム解明に向けた、MBPの構造と機能に関する研究がこれまで多くなされてきました。それらの研究により、MBPは生体膜に結合し、「糊」のように生体膜同士の接着を促すことで、ミエリン鞘の形成に寄与するという描像が見えてきました(図1)。しかし、結晶化(注6)が困難であるなどの問題から、広く利用されているX線結晶構造解析法の適用が難しく、MBPの詳細な膜結合構造についてはいまだに明らかになっていませんでした。

タンパク質の分子構造を、結晶化せずに体内に近い「生」の状態で調べる手法として円二色性分光法があります。近年では、光源として放射光を用いた真空紫外円二色性分光法の進展により、円二色性測定から得られる構造情報が格段に増加しました。さらに、真空紫外円二色性分光法から得られる構造情報を機械学習法であるニューラルネットワーク(注7)法による構造予測と組み合わせることで、タンパク質のどの部分で二次構造(注8)が形成されているかを予測することも可能になりました。真空紫外円二色性分光法はいくつかの膜結合タンパク質に応用され、その構造を解明することに成功しています。また今日では、コンピュータの性能が格段に向上したことにより、生体膜など比較的大きい系の分子動力学(以下、「MD」という)計算が可能になっています。

私たちの研究グループは、真空紫外円二色性分光法とMD法を組み合わせることで、MBPの膜結合構造を明らかにし、ミエリン鞘の形成メカニズム解明に資するデータを得ることができると考えました。MBPは、生体内でホスファチジルイノシトール(以下、「PI」という)類のリン脂質と相互作用して存在していることがわかっています。そこで本研究では、PIおよびPIとはリン酸基の数が異なるPIPとPIP2でできた生体膜をMBPと相互作用させ、そのときのMBPの構造を真空紫外円二色性分光法とMD法を用いて明らかにすることを試みました。

【研究の成果】

HiSORに設置された真空紫外円二色性装置を用いて、MBPのみの場合と、PI、PIP、あるいはPIP2でできた生体膜がMBPと共に存在する場合において、MBPの円二色性スペクトルをそれぞれ測定しました。測定したスペクトルを解析して、MBPのどの部分で二次構造が形成されているかを予測しました。さらに、予測された構造の中で、膜に結合する上で特に重要であると推定される領域を抜き出し、その領域がPI生体膜とどのように相互作用するのかをMD法により計算しました。

図2(a)は、生体膜がある場合とない場合、また膜の違いでMBPの円二色性スペクトルがどのように変化したかを示しています。生体膜がない場合のMBPは、波長200nmの光に対して負のピークを示すことがわかりました。このピークはランダムコイルと呼ばれる構造を持つタンパク質が示す特徴的なピークです。一方で、膜がある場合にはMBPは、222nmと208nmで負のピーク、193nmで正のピークを示し、その強度はPI生体膜よりもPIPやPIP2生体膜の方が大きくなることがわかりました。これらのピークはタンパク質のαヘリックス構造に特徴的なピークとして知られています。以上の結果より、MBPは生体膜と結合することでランダムコイルを多く含む構造からαヘリックスを多く含む構造に変化すること、また、PI膜よりもPIPやPIP2膜と結合した時の方が多くのαヘリックス構造を形成することが示唆されました。次に、これらのスペクトルを詳細に解析し、二次構造が形成されている部位を予測しました。その結果、生体膜と結合したMBPは8つの領域でαヘリックス構造を形成していることがわかりました。さらに、これらの領域を抜き出したMBPの断片とPI生体膜がどのように相互作用するかをMD計算した結果、8つの内3つのヘリックスが静電的相互作用により生体膜と結合し、2つのヘリックスが疎水性相互作用を伴い膜と結合することがわかりました(図2(b))。

図2 (a) 生体膜がない場合(黒)と生体膜(PI(緑)、PIP(青)、PIP2(赤))が存在する場合のMBPの円二色性スペクトル(b)全体構造を構成する上で重要であると推定された領域のMBPの断片とPI生体膜の相互作用についてのMD計算結果(一部抜粋)。

以上の観測・計算結果を統合的に検討した結果、図3に示すようにMBPは静電的または疎水性相互作用により生体膜と結合するヘリックスを複数形成することで、「糊」タンパク質として多層膜体であるミエリン鞘の形成に寄与することが明らかになりました。

図3 本研究結果をもとに考案された「糊」タンパク質であるMBPの膜結合構造のモデル。静電的相互作用により膜と結合する3つのヘリックス(赤色)と、疎水性相互作用を伴い膜と結合する2つのヘリックス(黄色)が、MBPの膜結合構造を構成する上で重要であると考えられる。

【今後の展開】

本研究では、生体膜と結合した状態にあるタンパク質の構造を明らかにする新たな実験手法を構築し、MBPの膜結合部位の詳細な分子構造や相互作用機構を明らかにしました。

本研究成果は、ミエリン鞘の形成メカニズムを分子レベルで解明するものです。また、これらMBPの分子構造とミエリン鞘がうまく形成されない脱ミエリン化との関連に関する研究にも応用でき、多発性硬化症など深刻な疾病のメカニズムの解明に寄与する可能性があります。

本研究アプローチは、これまで解析が困難であった膜結合タンパク質が関連する細胞内への物質輸送などの様々な生命現象への理解を深めるだけでなく、多発硬化症やパーキンソン病などの疾病メカニズムの基礎を解明し、その治療戦略に貢献することも期待されます。

【用語解説】

注1 放射光
ほぼ光速で直進する電子の進行方向が磁石などによって変えられた際に発生する電磁波でシンクロトロン放射とも呼ばれます。赤外からX線にわたる強力な光で、固体物理や生体物質構造研究をはじめ、物理・生物・化学などの分野を問わず広く利用されています。戻る
注2 真空紫外円二色性分光法
円二色性とは、タンパク質などの生体分子が示す性質で、左円偏光と右円偏光と呼ばれる特殊な光を吸収する度合いに差が生じる現象のことを指します。光の波長を変えながら円二色性の大きさを測ったものを円二色性スペクトルと呼びます。タンパク質の円二色性スペクトルの形状はその構造を反映するので、様々な条件で測定した円二色性スペクトルを比較することで、それらのタンパク質の構造に差異があるかどうかを知ることができます。本研究で用いた真空紫外円二色性分光法は、光源に放射光を用いており、市販の装置では測定困難な高エネルギー領域である真空紫外領域まで円二色性スペクトルの測定範囲を広げたもので、従来よりも正確かつ多くの構造情報を得ることができます。戻る
注3 分子動力学(MD)シミュレーション
原子や分子の動きを計算により導き出すコンピュータシミュレーションの手法です。近年では、コンピュータの性能向上やソフトウェアのアルゴリズムの改良により、生体分子などの高分子の長時間シミュレーションが可能になりつつあります。戻る
注4 多発性硬化症
目が見えにくくなったり、筋肉を動かしにくくなったり する神経系の難病です。ミエリン鞘の形成不全が原因ということがわかっています。戻る
注5 パーキンソン病
歩行しにくくなるなどの運動障害をもたらす神経系の難病 です。パーキンソン病患者の脳内にはレビー小体というタンパク質と脂質の特徴的な凝集体が存在することはわかっ ています。戻る
注6 結晶化
タンパク質の分子構造を調べる手法として、X線結晶構造解析法があります。この手法は、その名の通り、タンパク質の結晶が必要になりますが、MBPのような膜結合タンパク質は一般的に結晶化が難しいため、この手法による構造解析が進んでいませんでした。戻る
注7 ニューラルネットワーク
脳の神経回路を模した数理モデルの一つです。この数理モデルにデータを学習させることで、画像をコンピュータに認識させたりすることができます。タンパク質研究の分野では、アミノ酸配列を入力としてαヘリックスやβシートが形成される位置を予測することなど様々な用途に利用されています。戻る
注8 二次構造
タンパク質はそれぞれ異なる構造(三次構造)をしていますが、局所的に見ると、類似した構造が見られます。このタンパク質が共通して持っている構造のことを二次構造と呼んでいます。代表的な二次構造として、αヘリックス(らせん構造)やβシート(平面的な構造)があります。決まった二次構造をタンパク質がとらない場合、その構造はランダムコイルとして分類されます。戻る